革命があり、独立、そして、ペルー共和国として建国されるまで、
スペイン帝国植民地だった歴史があります。
それをコロニアル時代と呼びます。
インカ帝国がスペイン帝国に征服された後、今のペルー共和国になるまでには、
どんな歴史があったのでしょうか?
スペイン帝国植民地コロニアル時代の歴史
南米ペルーの歴史は、大きく分けるとプレインカ時代、インカ帝国時代、
スペイン帝国植民地コロニアル時代、そして、革命後のペルー共和国時代に分けられます。
インカ帝国の歴史の記事でもどのようにインカ帝国が征服されるに至ったか
ご説明しました。
征服者 Francisco Pizarro フランシスコ・ピサーロ
1532年、征服者 Francisco Pizarro フランシスコ・ピサーロが
現在の Tumbes トゥンベスから侵略を始め、
Cajamarca カハマルカにいた第14代皇帝 Atahualpa アタウアルパが捕らえます。
捕らえられた理由は、カトリック教徒の司祭が渡した聖書が字も読めず、
本という存在もわからず、意味がわからなかった為、捨てたというのが理由です。
Atahualpa アタウアルパ皇帝が捕まってしまった後、
Francisco Pizarro フランシスコ・ピサーロやスペイン人が金銀に
とても興味があることを悟った Atahualpa アタウアルパ皇帝は、
手を伸ばした際の位置までの金と銀と引き換えに、
釈放してくれるよう条件を出します。
実際、Atahualpa アタウアルパ皇帝は、6トンの金と12トンの銀を
Francisco Pizarro フランシスコ・ピサーロに保釈金と支払いました。
しかし、Francisco Pizarro フランシスコ・ピサーロは、約束を守らず、
Atahualpa アタウアルパ皇帝に有罪を宣告しました。
結局釈放されることはなく、1533年7月26日に処刑が実行されました。
そのため、ペルーの歴史スペイン帝国植民地コロニアル時代は、
西暦後約1533 年から始まり、西暦後約1821 年まで続きました。
スペイン帝国に抵抗した4皇帝
その後、Atahualpa アタウアルパ皇帝の敵をとろうと、内戦が起こります。
その際、スペイン軍を援助した Manco Inca Yupanqui マンコ・インカ・ユパンキという人物がいます。
Manco Cápac II マンコ・カパック2世としてして、知られる人物です。
そこで、Francisco Pizarro フランシスコ・ピサーロは、
Manco Cápac II マンコ・カパック2世を新皇帝として任命します。
Manco Cápac II マンコ・カパック2世を Sapa Inca サパ・インカ皇帝に改名します。
Sapa Inca サパ・インカ皇帝は、実質第15代皇帝になったわけです。
第15代皇帝 Sapa Inca サパ・インカ皇帝は、
Atahualpa アタウアルパ皇帝の敵をとろうとするインカ帝国の軍隊との戦争を
指揮します。
しかし、Francisco Pizarro フランシスコ・ピサーロは、戦争には興味がなく、
金銀財宝にしか興味がありませんでした。
Francisco Pizarro フランシスコ・ピサーロは、征服の1年後、
首都をクスコから現在のリマに変更しました。
Francisco Pizarro フランシスコ・ピサーロとスペイン軍の傍若無人さに失望した
第15代皇帝 Sapa Inca サパ・インカ皇帝は、1536年、アマゾン地帯に、
最後の砦として、Vilcabamba ビルカバンバを築き、
1544年に処刑されるまで、スペイン軍と戦いました。
スペイン軍に抵抗した4人の皇帝の最初の皇帝になりました。
その後、Sayri Túpac Inca サイリ・トゥパック・インカ皇帝、
Titu Cusi Yupanqui ティトゥ・クシ・ユパンキ皇帝
Túpac Amaru I トゥパック・アマル1世皇帝と続きます。
1572年9月24日に、Túpac Amaru I 皇帝トゥパック・アマル1世は、
処刑されました。
革命戦争
Túpac Amaru II トゥパック・アマル2世
1780年11月4日、Túpac Amaru I 皇帝トゥパック・アマル1世の末裔にあたる
José Gabriel Condorcanqui Noguera ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ・ノゲーラ、
またの名を José Gabriel Túpac Amaru ホセ・ガブリエル・トゥパック・アマルが
スペイン帝国に Túpac Amaru II トゥパック・アマル2世として、反旗を翻します。
1781年4月6日に捉えられ、1781年5月18日に、見せしめとして、
現在観光地になっているクスコ市の中心地アルマス広場で、
馬に四肢を引きちぎられて、処刑されました。
彼の妻、子、親戚、友人も全て、劇場の見世物のように、残酷に処刑されました。
Don José de San Martín サンマルティン・デ・ホセ氏
アルゼンチンの将軍 Don José de San Martín サンマルティン・デ・ホセ氏が
スペイン植民地支配への革命を指揮します。
アルゼンチン、ペルー、チリの独立革命戦争を指揮します。
海岸地帯の解放に成功し、1821年7月28日にペルーの独立を宣言します。
7月28日は、現在もペルー独立記念日として、祝日になっています。
Simón Bolívar シモン・ボリーバル
アンデス地帯の解放がまだだったため、ペルー政府は、
将軍 Simón Bolívar シモン・ボリーバルに革命の援助を求め、
1824年12月9日に、Ayacucho アヤクーチョの戦いで、
将軍 Simón Bolívar シモン・ボリーバルは、
Antonio José de Sucre y Alcalá アントニオ・ホセ・デ・スクレ・イ・アルカラと共に勝利を収め、
スペイン帝国植民地の頃にある時代に幕を閉じました。
ちなみに、余談ですが、将軍 Simón Bolívar シモン・ボリーバルの名前にちなんで、
ボリビア共和国と名づけられました。
将軍 Simón Bolívar シモン・ボリーバルが、初代ボリビア大統領で、
Antonio José de Sucre y Alcalá アントニオ・ホセ・デ・スクレ・イ・アルカラが
第2代ボリビア大統領です。
まとめ
革命までのペルーの歴史スペイン帝国植民地コロニアル時代、
たくさんの血が流されました。
金銀財宝にしか興味がなく、諸悪の限りを尽くした
クリストファー・コロンブス Christopher Columbus にしても、
Francisco Pizarro フランシスコ・ピサーロにしても、
スペイン帝国のカトリック教会は、悪魔としか言いようがありません。
まさに、闇の歴史、カトリック教会の暗黒時代が南米のスペイン帝国植民地時代にも
見られるということがわかります。
人類のとても残念で、決して繰り返してはならない黒歴史の1ページと言っても
過言ではないかもしれません。
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